2008.05.28
中村久子さんの生涯と念仏の心
みなさん、それぞれ色んなものを抱えながら、
一所懸命生きてるんだなと、
日々、人間の一生の尊さを感じております。
そういうことを色々考えながら、
以下、私がふと思ったことがあって書きとめました。
それで、思い出したお話がありましたので、
後で紹介させて頂きたいと思います。
(私のつぶやきより・カメのきもち)
あ〜あ・・・
重いなぁ・・・
この甲羅、誰がつけたんだろう・・・
生まれた時からあるような気もするけど。
大きくなるたび、甲羅も、どんどん大きくなっているようにも思う。
外れないかなぁ。。。 ママぁ〜 とってよぉ〜
スルスルって脱げたら、からだ、細いよ〜♪
二本足で、モデルのように歩きたいなぁ。
いいなぁ うさぎさん。。。
ぴょん、ぴょん、
はやい、はやい、
ずりばい、ずりばい、
よいしょ、よいしょ、
遠いなぁ・・・ あの丘。
なぁ〜んて、カメは思わずに、生きているのでしょうね。^^
それに、うさぎは、海の中を自由に泳ぐカメを見て、
自分も自由に大海原を泳いでみたいと願っているかもしれません。
自分にないものを持っている他人をうらやましく思う。
自分とは違う、憧れの誰かになりたいと思う。
自分のあるがままに、感謝出来ずに・・・
私が尊敬している人の中に、石川洋(よう)さんという先生がおられます。
随分前になりますが、石川先生に、中村久子さんという女性の生涯を、
丁寧に教えていただいた事があります。
今、思い出しましたので、ここに紹介いたします。
中村久子さんの略歴(当時の記憶が薄くなったので紹介文献より)
【幼少期】
1897年 明治30年 飛騨高山市に釜鳴栄太郎、あやの長女として出生された。
2歳の時に左足の甲に凍傷をおこし、
3歳の時に凍傷がもとで、 特発性脱疽となる。
手術すべきかと幾度となく親族会議をし英断を下さないうちに、
左手首からポロリと崩れ落ちた。
右手は手首、左足は膝とかかとの中間、右足はかかとから切断する。
幾度も両手両足を切断し3歳の若さから両手両足のない闘病生活が始まる。
7歳時に、最愛の父栄太郎がこの世を去る。
不幸は続き10歳の時に弟とも死別する。
そんな激動の生活の中、彼女を支えてくれたのは祖母ゆきと母あやであった。祖母ゆきと母あやの厳しくも愛情のある子育てのお蔭で、
彼女は食事、トイレ、風呂、といった身の回りのことはもちろんのこと、
裁縫編み物、炊事、洗濯、さえも出来るようになる。
【青年期】
1916年(大正5年)、20歳になった彼女は地元を離れ一人暮らしを始める。
彼女が就職した所は見世物小屋で、
「だるま娘」という看板芸人として働くようになる。
見世物小屋では、両手の無い体での裁縫や編み物を見せる事が芸であった。
こうして自らの力で自活の道を見つけ出すことが出来た久子さんでしたが、
彼女の心は生きる喜びや、希望が全く見いだせない、
そんな暗い日々が続いていたのです。
最愛の母の死や夫の死、それでも久子さんはくじける事無く働き続け、
その後1934年(昭和9年)興行界から去りました。
【見世物小屋を辞めてから晩年まで】
1937年(昭和12年)4月17日、41歳の時、
東京日比谷公会堂でヘレンケラーと出会う。
彼女はその時、口で作った日本人形をヘレンケラーへ贈った。
ヘレンケラーは久子さんを、
「私より可哀想な人、私より偉大な人」と賞賛したという。
翌42歳の時、福永鷲邦氏に出会い、「歎異抄」と出会う。
これををきっかけに、彼女は、次第次第にお念仏の道を深めていかれました。
けれども、生きる喜びを見出せず、心は晴れず、苦しみの日々の中、
たまたま隣に座られた方のその口から「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と、
静かにお念仏が出てくるのです。そして、
「お念仏なさいませ。一切は阿弥陀さまにお任せすることです。
どんな時も、阿弥陀さまは、私たち衆生を抱きかかえて下さるのです。
お念仏させて頂きましよう」と、にこやかに笑みをたたえながら、
その方は彼女にお念仏を勧めて下さったのです。
その時のことを久子さんは次のように書き記しています。
「そのお言葉はまさに干天(かんてん)に慈雨でした。
長い間土の中にうずめられていた一粒の小さい種子が、
ようやく地上にそっと出始めた思いがしました。
そして幼い日に抱かれながら聞いた祖母の念仏の声が、
心の底にはっきりと聞こえたのです。
そうだ、お念仏をさせて頂きましょう。
そして、阿弥陀さまにすべてお任せ申し上げよう。
ようやく真実の道が細いながら見いだせた思いがいたしました」
振り返ればそれは、長い長い試練の道のり。人の世の悲しみを、
いやというほど味わい、自らの境涯を恨み続けてきた彼女でしたが、
手足のないこの過酷な人生こそが、お念仏のみ教えに出会うための、
尊いご縁であったのだと、心の底からうなずくことができたのです。
50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、
全国の健常者・身障者に大きな生きる力と光を与えた。
1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足し、
初代会長に就任する。65歳の時厚生大臣賞を受賞した。
1968年(昭和43年)3月19日、高山市天満町の自宅において、
波乱に満ちた生涯に幕を閉じる。享年72であった。
〜中村久子さんの言葉〜
「さきの世に いかなる罪を犯せしや 拝む手のなき 我は悲しき」
「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず行かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
「手はなくも足はなくとも
み仏の慈悲にくるまる身は安きかな」
ある ある ある
さわやかな
秋の朝
「タオル とってちょうだい」
「おーい」と答える
良人がある
「はーい」という
娘がおる
歯を磨く
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
何でもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな
秋の朝
失くしたものを数えるより、残された恵に感謝しよう。 (石川洋)
中村久子さん
http://www.nakamura-hisako.co.jp/
合掌
南無阿弥陀仏
リラクゼーションサロン ショコラ
http://chocolat.main.jp/
一所懸命生きてるんだなと、
日々、人間の一生の尊さを感じております。
そういうことを色々考えながら、
以下、私がふと思ったことがあって書きとめました。
それで、思い出したお話がありましたので、
後で紹介させて頂きたいと思います。
(私のつぶやきより・カメのきもち)
あ〜あ・・・
重いなぁ・・・
この甲羅、誰がつけたんだろう・・・
生まれた時からあるような気もするけど。
大きくなるたび、甲羅も、どんどん大きくなっているようにも思う。
外れないかなぁ。。。 ママぁ〜 とってよぉ〜
スルスルって脱げたら、からだ、細いよ〜♪
二本足で、モデルのように歩きたいなぁ。
いいなぁ うさぎさん。。。
ぴょん、ぴょん、
はやい、はやい、
ずりばい、ずりばい、
よいしょ、よいしょ、
遠いなぁ・・・ あの丘。
なぁ〜んて、カメは思わずに、生きているのでしょうね。^^
それに、うさぎは、海の中を自由に泳ぐカメを見て、
自分も自由に大海原を泳いでみたいと願っているかもしれません。
自分にないものを持っている他人をうらやましく思う。
自分とは違う、憧れの誰かになりたいと思う。
自分のあるがままに、感謝出来ずに・・・
私が尊敬している人の中に、石川洋(よう)さんという先生がおられます。
随分前になりますが、石川先生に、中村久子さんという女性の生涯を、
丁寧に教えていただいた事があります。
今、思い出しましたので、ここに紹介いたします。
中村久子さんの略歴(当時の記憶が薄くなったので紹介文献より)
【幼少期】
1897年 明治30年 飛騨高山市に釜鳴栄太郎、あやの長女として出生された。
2歳の時に左足の甲に凍傷をおこし、
3歳の時に凍傷がもとで、 特発性脱疽となる。
手術すべきかと幾度となく親族会議をし英断を下さないうちに、
左手首からポロリと崩れ落ちた。
右手は手首、左足は膝とかかとの中間、右足はかかとから切断する。
幾度も両手両足を切断し3歳の若さから両手両足のない闘病生活が始まる。
7歳時に、最愛の父栄太郎がこの世を去る。
不幸は続き10歳の時に弟とも死別する。
そんな激動の生活の中、彼女を支えてくれたのは祖母ゆきと母あやであった。祖母ゆきと母あやの厳しくも愛情のある子育てのお蔭で、
彼女は食事、トイレ、風呂、といった身の回りのことはもちろんのこと、
裁縫編み物、炊事、洗濯、さえも出来るようになる。
【青年期】
1916年(大正5年)、20歳になった彼女は地元を離れ一人暮らしを始める。
彼女が就職した所は見世物小屋で、
「だるま娘」という看板芸人として働くようになる。
見世物小屋では、両手の無い体での裁縫や編み物を見せる事が芸であった。
こうして自らの力で自活の道を見つけ出すことが出来た久子さんでしたが、
彼女の心は生きる喜びや、希望が全く見いだせない、
そんな暗い日々が続いていたのです。
最愛の母の死や夫の死、それでも久子さんはくじける事無く働き続け、
その後1934年(昭和9年)興行界から去りました。
【見世物小屋を辞めてから晩年まで】
1937年(昭和12年)4月17日、41歳の時、
東京日比谷公会堂でヘレンケラーと出会う。
彼女はその時、口で作った日本人形をヘレンケラーへ贈った。
ヘレンケラーは久子さんを、
「私より可哀想な人、私より偉大な人」と賞賛したという。
翌42歳の時、福永鷲邦氏に出会い、「歎異抄」と出会う。
これををきっかけに、彼女は、次第次第にお念仏の道を深めていかれました。
けれども、生きる喜びを見出せず、心は晴れず、苦しみの日々の中、
たまたま隣に座られた方のその口から「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と、
静かにお念仏が出てくるのです。そして、
「お念仏なさいませ。一切は阿弥陀さまにお任せすることです。
どんな時も、阿弥陀さまは、私たち衆生を抱きかかえて下さるのです。
お念仏させて頂きましよう」と、にこやかに笑みをたたえながら、
その方は彼女にお念仏を勧めて下さったのです。
その時のことを久子さんは次のように書き記しています。
「そのお言葉はまさに干天(かんてん)に慈雨でした。
長い間土の中にうずめられていた一粒の小さい種子が、
ようやく地上にそっと出始めた思いがしました。
そして幼い日に抱かれながら聞いた祖母の念仏の声が、
心の底にはっきりと聞こえたのです。
そうだ、お念仏をさせて頂きましょう。
そして、阿弥陀さまにすべてお任せ申し上げよう。
ようやく真実の道が細いながら見いだせた思いがいたしました」
振り返ればそれは、長い長い試練の道のり。人の世の悲しみを、
いやというほど味わい、自らの境涯を恨み続けてきた彼女でしたが、
手足のないこの過酷な人生こそが、お念仏のみ教えに出会うための、
尊いご縁であったのだと、心の底からうなずくことができたのです。
50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、
全国の健常者・身障者に大きな生きる力と光を与えた。
1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足し、
初代会長に就任する。65歳の時厚生大臣賞を受賞した。
1968年(昭和43年)3月19日、高山市天満町の自宅において、
波乱に満ちた生涯に幕を閉じる。享年72であった。
〜中村久子さんの言葉〜
「さきの世に いかなる罪を犯せしや 拝む手のなき 我は悲しき」
「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず行かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
「手はなくも足はなくとも
み仏の慈悲にくるまる身は安きかな」
ある ある ある
さわやかな
秋の朝
「タオル とってちょうだい」
「おーい」と答える
良人がある
「はーい」という
娘がおる
歯を磨く
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
何でもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな
秋の朝
失くしたものを数えるより、残された恵に感謝しよう。 (石川洋)
中村久子さん
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合掌
南無阿弥陀仏
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