2008.09.17
吉崎御坊のお話
日曜日から夜行バスで、満月を探しながら、富山に行ってきました。
そこで、ものすごく心を打たれるお話を聞かせて頂きました。
浄土真宗再建に、命を使われた、
蓮如上人の時代のお話でした。
親鸞聖人のお話は時々日記でも紹介させて頂いていますが、
蓮如上人のお話はしたことがないと思いますので、
まずは、私にとっての蓮如上人を少しご紹介させてください。
親鸞聖人の時代から、200数十年後に
親鸞聖人の生涯と、その御心を念い、
その御心をそのままお伝えくだされた蓮如上人のお陰で、
親鸞聖人の御心、教えが間違われずに、誤解されずに、そのまま
その当時の人々に伝わったのだと思います。
蓮如上人の、その当時の時代背景を説明していると、かなり長くなります。
また、他宗の方々の手前、言葉も選ばせて頂きながら、
手短に説明させてください。
蓮如上人は、親鸞聖人の教えをひろめておられましたが、
そのために、攻められ、居場所を奪われ、様々な迫害を受けておられました。
その迫害から逃がれ、選ばれた場所が、福井県の吉崎御坊でした。
吉崎御坊は、次第に、多くの門徒や商人が移住して家を構えるようになり、
わずか2年余りの間に、二百軒近い多屋や民家が出来ました。
そして、吉崎には、数万人にも及ぶ門徒の方々が集まりました。
吉崎御坊跡地(福井県)

ところが、吉崎御坊への参詣者が急増するにつれ、
ねたみ、そねみ、を買いました。
文明6年(1474)3月28日、風の強い夜のこと、
吉崎御坊の南大門あたりから、突然、火の手があがり、
たちまち、いくつかの多屋に火が燃え移りました。
猛火は、ついに、本堂を押し包んでしまったのです。
蓮如上人はこの時、奥の書院で、
親鸞聖人ご真筆の『教行信証』証の巻を拝読しておられました。
突然の出火に驚かれ、やっとの思いで、
『教行信証』を運び出し、逃れられた時のこと、
「ああ、しまった!蓮如、一生の不覚」と叫ばれ、
燃え盛る奥の書院目掛けて走りだそうとされました。
気でも狂ったかと驚いて止める弟子に対し、
「経櫃は無事にご避難申したが、『教行信証』証の巻は、
机の上に出したままなのじゃ。
祖師聖人ご真筆のお聖教、一巻なりと、
蓮如の時に焼失したとあっては、末代までの不面目……」。
蓮如上人は、またもや弟子を振り払い、書院に向かおうとした、その時、
すっと前へ進み出た、若き一人の弟子がありました。本光房了顕です。
「上人さま、そのお聖教は、了顕の命に代えてお救いいたします。
ご安心ください」
と、必死の思いで叫び、燃え盛る真っ赤な炎へと駆け込んでいきました。
了顕が、やっとの思いで、書院に辿り着くと、
『証』の巻は、まだ燃えずに机の上にありました。
了顕、大喜びしたい心を抑え、脱出しようとした時、
くすぶっていた襖が、パッと火を吹き、行く手を遮ってしまいました。
もう、逃れるすべはありません。
了顕は、
「たとえ、この場に命尽きようと、それは、もとより覚悟のこと。
しかし、ようやく手にしたお聖教、お護りせねば、
了顕、死んでも死に切れぬ」
その時、了顕は、自分の肩から血が流れ落ちている事に気付きました。
ああ、なんとかなるかもしれないと、
了顕は、自らの腹を切り割き、内臓の奥深くに、
お聖教を収める決意をしました。
「地獄一定の本光房了顕、阿弥陀仏の本願に救われた幸せ者でございます。
蓮如上人にお会いすることができなかったら、
今生も、自業苦から地獄への綱渡りになったでしょう。
やがて死にゆく露の命、法のためなら悔いはございません。
『証』の巻は、必ず上人さまのお手元にお届けいたします。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
と、念仏を高々と称えた了顕は、持参の短刀を逆手に取り、
十文字に腹を切り開き、自らの手で、お聖教を腹に収めて地に倒れました。
やがて、吉崎御坊を焼き尽くした猛火も収まり、
その焼け跡からは、『教行信証』を自らの切り開いた腹に、
しっかりと抱いた、本光房了顕の遺体が発見されました。
恩徳讃
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
これぞ、究極の恩徳讃・・・
恩徳讃を、そのまま体で示した、本光房了顕。
この言葉、恩徳讃のように生きることは、
ただの感謝では出来るはずもなく、
何があっても、どんな時でも崩れない、金剛信、
この金剛信が、そうせずにはいられなくさせるのだと思います。
金剛信とは、頭で理解し、納得し、心でその時々に味わうようなものでなく、
自分で、なんとか出来るものではないように思いました。
私には、本光房了顕のような生き方は出来ませんが、
せめて、私が出来る、小さな善を、重ねて生きたいと思います。
本光房了顕のお墓

合掌
そこで、ものすごく心を打たれるお話を聞かせて頂きました。
浄土真宗再建に、命を使われた、
蓮如上人の時代のお話でした。
親鸞聖人のお話は時々日記でも紹介させて頂いていますが、
蓮如上人のお話はしたことがないと思いますので、
まずは、私にとっての蓮如上人を少しご紹介させてください。
親鸞聖人の時代から、200数十年後に
親鸞聖人の生涯と、その御心を念い、
その御心をそのままお伝えくだされた蓮如上人のお陰で、
親鸞聖人の御心、教えが間違われずに、誤解されずに、そのまま
その当時の人々に伝わったのだと思います。
蓮如上人の、その当時の時代背景を説明していると、かなり長くなります。
また、他宗の方々の手前、言葉も選ばせて頂きながら、
手短に説明させてください。
蓮如上人は、親鸞聖人の教えをひろめておられましたが、
そのために、攻められ、居場所を奪われ、様々な迫害を受けておられました。
その迫害から逃がれ、選ばれた場所が、福井県の吉崎御坊でした。
吉崎御坊は、次第に、多くの門徒や商人が移住して家を構えるようになり、
わずか2年余りの間に、二百軒近い多屋や民家が出来ました。
そして、吉崎には、数万人にも及ぶ門徒の方々が集まりました。
吉崎御坊跡地(福井県)

ところが、吉崎御坊への参詣者が急増するにつれ、
ねたみ、そねみ、を買いました。
文明6年(1474)3月28日、風の強い夜のこと、
吉崎御坊の南大門あたりから、突然、火の手があがり、
たちまち、いくつかの多屋に火が燃え移りました。
猛火は、ついに、本堂を押し包んでしまったのです。
蓮如上人はこの時、奥の書院で、
親鸞聖人ご真筆の『教行信証』証の巻を拝読しておられました。
突然の出火に驚かれ、やっとの思いで、
『教行信証』を運び出し、逃れられた時のこと、
「ああ、しまった!蓮如、一生の不覚」と叫ばれ、
燃え盛る奥の書院目掛けて走りだそうとされました。
気でも狂ったかと驚いて止める弟子に対し、
「経櫃は無事にご避難申したが、『教行信証』証の巻は、
机の上に出したままなのじゃ。
祖師聖人ご真筆のお聖教、一巻なりと、
蓮如の時に焼失したとあっては、末代までの不面目……」。
蓮如上人は、またもや弟子を振り払い、書院に向かおうとした、その時、
すっと前へ進み出た、若き一人の弟子がありました。本光房了顕です。
「上人さま、そのお聖教は、了顕の命に代えてお救いいたします。
ご安心ください」
と、必死の思いで叫び、燃え盛る真っ赤な炎へと駆け込んでいきました。
了顕が、やっとの思いで、書院に辿り着くと、
『証』の巻は、まだ燃えずに机の上にありました。
了顕、大喜びしたい心を抑え、脱出しようとした時、
くすぶっていた襖が、パッと火を吹き、行く手を遮ってしまいました。
もう、逃れるすべはありません。
了顕は、
「たとえ、この場に命尽きようと、それは、もとより覚悟のこと。
しかし、ようやく手にしたお聖教、お護りせねば、
了顕、死んでも死に切れぬ」
その時、了顕は、自分の肩から血が流れ落ちている事に気付きました。
ああ、なんとかなるかもしれないと、
了顕は、自らの腹を切り割き、内臓の奥深くに、
お聖教を収める決意をしました。
「地獄一定の本光房了顕、阿弥陀仏の本願に救われた幸せ者でございます。
蓮如上人にお会いすることができなかったら、
今生も、自業苦から地獄への綱渡りになったでしょう。
やがて死にゆく露の命、法のためなら悔いはございません。
『証』の巻は、必ず上人さまのお手元にお届けいたします。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
と、念仏を高々と称えた了顕は、持参の短刀を逆手に取り、
十文字に腹を切り開き、自らの手で、お聖教を腹に収めて地に倒れました。
やがて、吉崎御坊を焼き尽くした猛火も収まり、
その焼け跡からは、『教行信証』を自らの切り開いた腹に、
しっかりと抱いた、本光房了顕の遺体が発見されました。
恩徳讃
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
これぞ、究極の恩徳讃・・・
恩徳讃を、そのまま体で示した、本光房了顕。
この言葉、恩徳讃のように生きることは、
ただの感謝では出来るはずもなく、
何があっても、どんな時でも崩れない、金剛信、
この金剛信が、そうせずにはいられなくさせるのだと思います。
金剛信とは、頭で理解し、納得し、心でその時々に味わうようなものでなく、
自分で、なんとか出来るものではないように思いました。
私には、本光房了顕のような生き方は出来ませんが、
せめて、私が出来る、小さな善を、重ねて生きたいと思います。
本光房了顕のお墓

合掌
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